
ごきげんよう。刺繍作家・英国王立刺繍学校講師の二村エミです。
英国の伝統刺繍、ゴールドワークについてお届けしてきたシリーズも、今回で最終回となりました。
最後に取り上げるのは、ゴールドワークが最も華やかにその姿を見せる舞台のひとつ、英国王室の戴冠式です。
歴代の国王や王妃がまとう壮麗なローブ。その金色に輝く刺繍の裏側には、気の遠くなるような時間をかけた手仕事があります。
そして、私が刺繍を学んだRoyal School of Needlework(英国王立刺繍学校/RSN)も、英国王室の戴冠式の刺繍制作に携わってきました。
今回は、歴代の戴冠式を彩ったゴールドワークとともに、なぜRSNがこうした技術を学校の中で教え続けてきたのか。
私自身が学生時代に経験した「戴冠式のゴールドワーク」の課題についても振り返ってみたいと思います。
目次
戴冠式の刺繍を支えてきたRoyal School of Needlework

英国王室の歴史を象徴するハンプトン・コート・パレス。この宮殿内には、歴代国王の戴冠式ローブのゴールドワーク(金糸刺繍)を担ってきた「王立刺繍学校(RSN)」があります
Royal School of Needleworkと英国王室との関係には長い歴史があります。王室にまつわる刺繍制作や修復に携わり、近代の戴冠式でも高度な刺繍技術を提供してきました。
戴冠式のローブを写真で見ると、まず目を奪われるのは、その圧倒的な華やかさでしょう。けれど、刺繍を学ぶ側から見ると、もうひとつ重要なことに気づきます。戴冠式は、いつ行われるのか分からない。一度の戴冠式から次の戴冠式まで、数十年という時間が空くこともあります。
それでも、その日が訪れたときには、歴史的な衣装に求められる高度な刺繍を実際に制作できる人がいなければなりません。つまり、作品そのものを保存するだけでは足りないのです。技術を持った「人」を残していかなければならない。ここに、学校としてのRSNが果たしてきた重要な役割があります。
1937年 クイーン・マザーの戴冠式
1937年、ジョージ6世の戴冠式が行われました。その隣に王妃として立ったのが、後に「クイーン・マザー」として親しまれるエリザベス王妃です。当時の英国は、まだ広大な大英帝国を形成していた時代でした。
このローブに、英国を構成する地域を象徴するローズ(イングランド)、アザミ(スコットランド)、シャムロック(アイルランド)、リーキ(ウェールズ)が取り入れられていたことが紹介されています。
さらに、カエデの葉(カナダ)、アカシアの花(オーストラリア)、シダの葉(ニュージーランド)、プロテアの花(南アフリカ)、蓮(インド)など、当時の大英帝国を構成していた国や地域を表す植物もデザインされていました。
華やかな植物文様として眺めるだけでなく、「なぜ、この時代に、このモチーフが選ばれたのか」という視点で見ると、刺繍の向こう側に当時の英国と世界との関係まで見えてきます。ゴールドワークは単なる装飾ではなく、その時代を映し出すものでもあるのです。

1937年 ジョージ6世とエリザベス王妃(のちの皇太后)戴冠式公式ポートレート
Wikimedia Commons (File:King George VI and Queen Elizabeth 1937.jpg) / パブリックドメイン(PD-UKGov)
1953年 エリザベス2世のRobe of Estate
1953年6月2日、若きエリザベス2世の戴冠式が行われました。この戴冠式で女王がまとった衣装の中でも、ゴールドワークの観点から特に注目したいのが、紫色のベルベットで作られたRobe of Estateです。
ここで区別しておきたいのが、戴冠式で着用されたドレスとRobe of Estateは別のものだということです。戴冠式ドレスには英国や英連邦各国を象徴する植物が刺繍されたことで知られていますが、今回取り上げるのは、そちらではありません。
Robe of Estateを彩っているのは、金色に輝く麦の穂とオリーブの枝です。麦は豊穣、オリーブは平和を象徴するものとして用いられ、紫のベルベットの上に壮大な植物文様が広がっています。この刺繍制作にもRSNが携わりました。

1953年 エリザベス2世とエディンバラ公フィリップ 戴冠式公式ポートレート
Library and Archives Canada / Wikimedia Commons (File:Elizabeth and Philip 1953.jpg) / パブリックドメイン
特別な素材と膨大な制作時間
王室のための刺繍では、デザインだけでなく、使用される布地や金属糸、制作方法にも特別な配慮が必要になります。まして、Robe of Estateほど巨大な衣装ともなれば、その制作規模は通常の刺繍作品とは比較になりません。
広大な布の上に金属糸を使った刺繍を施し、複数の人が携わりながらも、完成したときにはひとつの作品として統一されていなければならない。その裏側には膨大な制作時間と、刺繍をする人たちの緻密な仕事があります。
このローブに使われた特別な素材や制作時間などについては、今回のラジオでも詳しくお話ししています。
そして70年後、チャールズ3世の戴冠式へ
エリザベス2世の戴冠式から約70年。2023年5月6日、チャールズ3世国王の戴冠式が行われ、RSNはこの歴史的な戴冠式にも携わりました。私自身も、このプロジェクトに関わる機会をいただきました。
王室に関わる仕事には守秘義務がありますので、ここでは公表されていることと、私自身がお話しできる範囲にとどめたいと思います。
それでも、この戴冠式を経験して改めて実感したことがあります。1953年から2023年まで、およそ70年。70年前に使われた刺繍技術を、70年後にも実際に使える人がいる。それは決して当たり前のことではありません。
カミラ王妃のローブに見る時代の変化
2023年の戴冠式でもうひとつ興味深かったのが、カミラ王妃のRobe of Estateです。過去の王妃たちの壮大なローブと比較すると、その姿はより軽やかで現代的です。長さや重さにも着用者への配慮が感じられ、刺繍にも伝統を踏まえながら新しい時代を感じさせる表現が取り入れられています。
1937年、1953年、そして2023年。それぞれを比べると、王室の刺繍は決して「昔と同じものを作り続けること」ではないと分かります。時代が変われば、そこに込められる意味も変わり、着る人が変わればデザインも変わる。
それでも、金属糸を一針ずつ人の手で留めていく技術そのものは、次の時代へ受け継がれていきます。
なぜRSNでは「戴冠式のゴールドワーク」を学ぶのか
私がRSNで学んでいた頃、カリキュラムの中に戴冠式をテーマにしたゴールドワークの課題がありました。伝統的な技法とデザインを学び、それを使って作品を制作する。さらに、その作品は学内コンテストの対象にもなっていました。
学生だった当時は、目の前の作品を完成させることで精一杯でした。けれど、後に実際の戴冠式に関わってみると、この課題がなぜ学校のカリキュラムに組み込まれていたのか、その意味がよく分かります。
次の戴冠式がいつになるかは誰にも分からない。それでも、その日が来たときに「もうこの刺繍ができる人はいません」では困るのです。だから、実際の王室の仕事がない時代にも学生たちが技法を学ぶ。技術を人の手の中に残していく。その役割を担っているのがRSNなのだと思います。
華やかなゴールドワークの裏側にあった熾烈な競争
もっとも、学生だった私たちが、そんな歴史的使命ばかりを考えて制作していたわけではありません。コンテストとなれば、学生たちは真剣です。より美しく、より正確に、より完成度の高い作品を。同じ課題に取り組む学生同士で、表面上は静かでも、実際にはかなり熾烈な競争がありました。
ゴールドワークは細かな金属糸を扱い、完成までに長い時間を要します。技術だけでなく、集中力や根気も求められます。途中で思うように進まず、課題を最後までやり遂げることができなかった学生もいました。同じ課題に取り組んでいた男性の同級生が途中で脱落したことも、今でもよく覚えています。
そんな中私は幸運にも、この戴冠式をテーマにした課題作品で賞をいただくことができました。今でも、私にとって大切な作品のひとつです。

2002 Royal School of Needlework在学中の課題作品。Gold and Silver Wire Drawers Prize受賞
伝統とは「変わらないこと」ではない
1937年から1953年、そして2023年へ。歴代の戴冠式の刺繍をたどってみると、デザインも、そこに込められた意味も少しずつ変化しています。けれどその根底には、何世代にもわたって受け継がれてきた刺繍の技術があります。
伝統を守るということは、昔とまったく同じものを作り続けることではない。受け継いだ技術をその時代に生きる人の手で使い、そして次の人へ渡していく。私が学生時代に制作した課題作品も、振り返ってみれば、その長い技術継承の流れの中にあったのだと思います。
そして今、私自身も日本でゴールドワークを教える立場になりました。英国で学んだ技術を自分だけのものとして終わらせず、次の誰かの手へ伝えていく。それもまた、RSNで学んだことのひとつなのかもしれません。
音声でもっと深く知る
今回ご紹介した戴冠式のゴールドワークについては、ラジオ「英国刺繍通信」でも、ブログには書ききれなかったエピソードを交えながらお話ししています。
第1回:Goldworkについて・その魅力
第2回:Goldworkの歴史
第3回:英国王室戴冠式のGoldwork


